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伊能忠敬と秋山惣兵衛のとの交友

 

伊能忠敬公は全国を測量し日本地図を作成された人として有名です。しかし秋山惣兵衛という人はよく知られていません。しかし忠敬公と交友が深くまた宮城県の地元の人でしたから、一筆したためてみたいと思いました。秋山惣兵衛は江戸時代に伊能忠敬と同じ時代に生きた宮城県の方です。現在の石巻市雄勝町分浜(ワケハマ)で船の運送・商売も含めた仕事をしていた方でした。伊能忠敬公記載の「奥州紀行」安永七年(1778年)の箇所に次のような記載が見られました。


「仙城入口に広瀬川橋有。仙城宿国分町木幡屋太兵衛方に滞留、八日九日両日也。八日は丸に休。九日は所々見物致し候。尤(モットモ)、鉾田より奥州分、秋山惣兵衛と申仁と一同に相成、国分町迄同道致。右惣兵衛は肴町問屋へ参申候。此仁肴商売致し廻船を持、銚子江戸へ積入申候よし。此度も分(ワケ)より江戸へ登夫より銚子へ廻候よし。能連にて十二三日之しけ道中を一所に致し相互に慰合申候。木幡屋も甚宜宿にて朝夕魚類沢山に給申候。食料百五拾銅に相極申候」


上記の文章を現代語に近い言葉に下記の通りに直してみました。幾分正確な訳出ができない場合もあるかと思いますがご理解ください。なおこの時忠敬は妻の「みち」と外に
2人の従者が一緒でした。


「仙台城下に広瀬川にかかる橋がありました。仙台城下での宿は「木幡屋太兵衛(コハタヤタヘイ)」でした。その宿に滞留しました。
8日と9日の2日間でした。8日は丸1日休みました。9日は所々見物して歩きました。尤(もっとも)鉾田(茨城県鉾田(ホコタ)市付近)あたりから奥州の分(ワケ:おそらく分浜)の秋山惣兵衛という人と一緒になり、仙台の国分町の宿まで同道することになりました。この惣兵衛は肴町(魚町;魚屋の町として栄えた。現在の青葉区大町2丁目の一部と国分町1丁目の一部にあたり、中心部のやや西に位置する)の問屋に行かれました。この方は魚の商売をしており、また廻船(国内沿岸の物資輸送に従事する荷船。主に商船。)を所有し、銚子や江戸まで積荷を入れているそうです。このたびも分(ワケ;おそらく分浜(ワケハマ);現在の石巻市雄勝町分浜で惣兵衛の家の地名)より江戸へ登り、その後それより銚子に廻ってきたということでした。能連(ヨキツレ;よい連れ)にて12〜13日間、そのしけの道中紀行文を見ますと旅行中の道中は大雨が多く難儀をした記載がみられます)を一所に致し、互いに慰め合いました。また木幡屋(コハタヤ)も大変よろしい宿であり、朝夕魚類が沢山あたえられごちそうになりました。食料代は百五十銅(150文)に決まりました。」

 

また別の後の「測量日記」享和元年9月8日(1801年;上記より約23年後)の記載分に同じ出来事を記載したものがありました。
「余先年奥州松島遊覧しけるに頃は皐月(旧五月)末の8日(旧
528日のこと)佐原を出立。鉾田(ホコタ)云所(ユウトコロ)まで乗船す。風波ありて尺取らす漸(ようやく)に串挽江(へ)着て船泊まりしける。傍にも旅人乗し舟ありける苫(とま;すげ、かやで編んで作ったもの。船などを覆い雨露をしのぐのに用いた。)越しに物語れば松島より遠き分ヶ濱(ワケガハマ)という所の秋山惣兵衛という者にて、交易の事に銚子港へ来たり、復(また)其国へ帰りけるなり。旅人云けるは、「一人旅の物寂しけれは願くば同伴し賜へかしと」(一人旅で寂しいので同伴させてくださいませんか。)乞し程に(乞われた;頼まれたので)、此方も旅馴れぬ身の幸と一緒に同道しける(こちらのほうも旅馴れしていないので、身の幸と一緒に同道することになりました。)に、日々の驛(宿場)次、止宿(シシュク;宿泊すること)など、いと(大変)懇意(親しく)に執斗ひける(うちとけるの意味かも?)。十日程(を)経て仙台の城下に着けるに此処(そこ)の所の名所などを案内し、かつ酒食までも篤(あつ)く饗應(キョウオウ;ごちそうになる。)しける。別れに望て(別れに望んで)、惣兵衛が云いけるは「貴邦(あなたのお国)は吾郷(ワガサト)を去る事百余里(400km以上)の山海を隔てぬれば、枉駕(オウガ;ご来訪の意)難しかるべし。(またお会いすることは難しい)。余は(私は)、交易のため銚子港又は東都(江戸時代には江戸の雅称として東都と呼ばれた)江(へ)幾度も往来す。其の行路なれば必ず尋ね問わん(その行く行路にあたりますから必ずや尋ねて行きましょう。)」と約して別れぬ。それより年を経ぬれと互いに音信もせざりしに・・・


説明と解説

以上ですが惣兵衛と忠敬は最初に出会ったのがおそらく現在の茨城県鉾田市の串挽(クシビキ)あたりの船着き場であったようです。旧暦の5月末に千葉県の佐原を出発し、利根川の水運を利用し、高瀬舟のような小型舟に乗り、下って行って鉾田市の串挽付近に到着しまた。その串挽でこの秋山惣兵衛と出会います。「苫」(トマ)越しに話をした、とあります。隣の舟に乗っていた惣兵衛と忠敬との話がはずんだということになります。高瀬舟のような小型の舟どうしが港で並んでいたときに、親しく話をして意気が投合したのでしょう。その後、惣兵衛と忠敬一行の4人は一緒に仙台まで旅をしました。途中1回船に乗りましたが、他は陸路で行きました。駄賃を払った記録が随所に見られますので、途中たびたび馬に荷を載せて運んでもらいました。また女性(忠敬の妻)も一緒でしたから、仙台藩との国境の関所(駒ヶ峰)では女性の吟味が厳しかったような記載が見られます。また途中は梅雨のせいもあったかもしれませんが、大雨や雨の記載が多く見られ、道中はそのため大変苦労しました。途中の状況の記載などは興味深いものがあります。


(参考資料;
土浦市立博物館発行;高瀬舟と水運より抜粋引用;江戸時代、土浦河岸がしを出発した高瀬船は霞ヶ浦をわたり、利根川をのぼって江戸川をくだり、大都市江戸に米や醤(しょう)油を運びました。では、一体どのくらいの時間をかけ、どのように物資を輸送していたのでしょうか。残念ながらその航行を具体的に知る史料は見あたりませんが、串挽(くしひき)河岸(鉾(ほこ)田市)から北浦をわたり、利根川・江戸川を通って江戸に物資を輸送した水戸藩召めし抱えの船頭の日記を参考にできそうです。日記を分析した渡辺英夫さん(秋田大学)によると、そこには嘉永6(1853)年の4回にわたる串挽―江戸間の航行記録が書かれているそうです。このうち、利根川の登り(牛堀・潮来(こいた)→境)では4〜7日、下りで3〜4日ほど、江戸川の下り(関宿→江戸)は1日、登りは3〜8日程で航行をしています。しかし、実際には天候回復を待つための停泊、関宿の船番所での順番待ちをするなど、それ以上の時間がかかりました。たとえば、串挽を6月25 日に出発した4回目の往路では、翌26 日に利根川へ入りましたが、渇水と台風による停泊が続き、江戸に到着したのは7月19 日のことでした。)(*また伊能家は利根川の水運業にも携わっており、これを利用して旅行したというのは必然のことであったかもしれません。参考資料;元文5年(1740)「佐原村鑑明細帳」伊能忠敬記念館蔵)によれば、「佐原村 高瀬船23艘、ひらた船17艘、茶船16艘、耕作用船(小房丁舟)110艘」と記述されています。

左記はグーグルからの引用画像です。利根川の高瀬舟です。

下記の画像は佐原から串挽あたりまでの行路です。その後は海路ではなく、おもに浜通りを陸路で10日くらいかけて泊まりながら行きました。

(下記の画像は「平潟港の歴史」のサイトの中の「東廻海運」のページの画像を参考にし、説明を加えたものです。)


下記の地図は「伊能忠敬書状」昭和
48年千葉県発行の中の245ページ「奥州紀行」順路の地図から引用させていただいたものです。(旅行の順路がよくわかります。)



秋山惣兵衛はきっと「もてなしの精神」の豊かな人であったようです。また義理堅く、行動的で商売熱心でもあったようです。また気さくで親身になってくれた人のようです。忠敬と仲良くなり、交友を結びました。しかし再び忠敬と会うことができるでしょうか。当時の状況では、偶然でもない限りきっと生涯中会うことはまずないと考えるべきでしょう。しかし偶然とはいえ再び再会を果たすことになります。先ほどの「測量日記」享和元年98日の続きの所で再会が記されています。下記の通りです。


「此度(コノタビ)台命(将軍の命令)を蒙り(あたえられ)、國々(クニグニ)の海邊(カイヘン)を往来しける。此國(コノクニ)の守よりも令ありて止宿の事までも沙汰せられけるに不思議に此(コノ)分ヶ濱(ワケガハマ)なる秋山惣兵衛なる家に舎り(トマリ)會(会)ぬ。真に深き因縁にてそありける。終夜往時を語り合い、指を屈すれば安永七戊戌の歳にて二十四年にこそなりける。主じも別離を惜み此先の泊々二三日乃間送別しける」

とあります。これを現代語に少し直してみますと次のようになります。

「このたび将軍様のご命令を与えられ、国々の海辺を往来しています。この国(仙台藩)の守(藩主)よりも命令があって、宿泊(先)のことまでも指示されました。そうしたところ不思議なことに、この分ヶ濱なる秋山惣兵衛という家に泊まることになり、会うことになりました。本当になんと深い縁でありましょうか。一晩中昔のことを語り合いました。指で数えると、安永七年から今日まで二十四年にもなっていました。主人も別離を惜しんで、この先の宿泊まで二三日の間、送別してくださいました。」


偶然、
23年ぶりに再会することができました(忠敬記載の上記では24年とありますが、計算では23年後です。これはおそらく「会った年を指で第1年として数え始めたから」と思われます。現在でも満何歳と数える場合と、数えで何歳というのに似ているのかもしれません。昔は数えの仕方がほとんどでした。)夜通し話しこみ、その後も別れを惜しんで2〜3日の間、後の宿泊先までついてきてくれました。

 

この惣兵衛さんの性格ですがある程度推定できるかもしれません。初めに若かったときには、4人連れだった忠敬一行に話しかけて、寂しいので一緒に行きましょうと誘いました。それで仙台まで一緒に行き、一緒に行動しました。また仙台で忠敬一行をもてなし、酒や魚で待遇しました。また23年ぶりに再会したときは、夜通し昔のことを語り合いました。また惣兵衛さんは2〜3日間別れを惜しんで忠敬一行の測量隊について行きました。これらのことからどんなことがわかるでしょうか。若かったときは商売人として現在の商社マンのように動き回って活動的に行動していました。しかし、冷淡な商売人ではなく一度仲良くなると、その人にもの惜しみすることなく、実際的な親切や援助を差し伸べてくれました。また久しぶりにあっても以前と同じ仕方で接してくれました。これらのことはわたしたちも、みならうことができるものが含まれているのではないでしょうか。

 

参考資料;上記記載の資料の他に、「仙台藩領における伊能忠敬の足跡」高橋昭夫氏の資料も参考にさせていただきました。